本当にどうでもいいけど(追記)

本当にどうでもいいけど、昨日たまたまベリキュー見てて(別に普段から血眼でチェックしてるわけではないですが笑)、そしたらムンクの『叫び』を再現してください的なことをやっていて、これよくあるなあ、なっちが娘。時代のなんかのバラエティとかでも見た話だなあと思ったんですけどそれはいいとして。


日常生活とかでもよく思うんだけど、あれは『ムンクの叫び』という絵だと思ってる人多くないですか。多いと思ってるのは僕だけかな。ありゃムンクって人が描いた『叫び』っていう絵ですよ。なーんかどうも昨日も、進行役のサバンナ高橋含めてベリとか℃のメンバーが勘違いしてねえか、っていうフンイキがあって。昔の娘。のときもそうだったんだけど。違いますよ。ムンクって画家の名前ですよ、という。


あとどうでもいいけど、あの人は叫んでいるのではないです。恐ろしい叫び声を聴いて、それに対して耳を塞いでいる、という絵です。確か。

小休止

こんばんは。梅雨ですね。


なっちは小休止だろうか、或いは表に見えないところでツアーの準備に忙しくしているのだろうか、などと思いつつ。僕も小休止です。小休止というのはブログがであって、実際忙しいからそうせざるを得ないんですが。


まあそうは言っても、最近は平気で2ヶ月近く放置するから、小休止もクソもないのだけど。


個人的な勝手な話なのですが、なっちには「一つずつ、じっくり・ゆっくり」という感じで活動してもらえると僕としては非常に馴染みやすい。
トゥーランドット』の時など、たぶん舞美ちゃんとのユニットが一段落した後はほぼ100%舞台の仕事だったように見えます。ごくわずかな舞台のプロモーション以外は、恐らくはほとんど全て舞台の準備・本番に集中していたことでしょう。その結果として、僕はここ数ヶ月にわたってなっちの「新たな表現」を、なんとか時間をひねり出した、ただ一度の観劇の日以外に享受していないのですけど。別にいいのかなと。だって毎日高級ステーキ食えないですよ、っていうね。
そんなのんびりした感覚が、個人的には楽でいいです。
毎日のコンビニ弁当はいらん。何ヶ月に一回か、最高級のものをじっくりと。
なっちの表現の姿勢の変化をきちんと見つめて、それに見合った腰の据わり方でもって受けとめるよう心がけなければいけない、とも思います。ちょうど僕の生活の変化にも合った感じで、大した努力とかも必要ないんですけどね。


トゥーランドットについては、最近もまだ、パンフレットを見て舞台を思い出しては、幸せになったり深く考え込んだりしています。例えばパンフレットに稽古場の風景を撮影した写真がありますが、そのうちに、恐ろしく張り詰めて集中を研ぎ澄ませた様子のなっちの表情があります。写真集や生写真なんかではなかなか見られない表情。ライブのステージで集中する表情ともまた違う。何が見えていたのだろう、とか。
その場で楽しませ、余韻で楽しませる表現。もちろんライブ等でも余韻はありますけど、なっちの生の表現でこれだけ余韻が続いた経験はたぶん初めてです。


まあそうは言っても、そろそろ新曲を聴きたいですけどね。ツアー前に来るかなとは思ってたんですけど、どうなんだろ。まあ「トゥーランドットの歌唱経験」とライブという慣れた場での表現をうまいことなっちが合わせてより進化した歌声を見出してくれる、っていう後での新曲というのならそれでもいいかな、などなど。


というか俺が行けるのだろうか。うーむ。
大阪五分五分、誕生日五分五分。どっちかは都合ついてくれないと困るなあ。


まあいいや。「自分の大切な勝負の時間はそれを頑張って、少し疲れたり余裕ができたら会いに来て、歌を聴いて元気になってね」と思ってくれるはずだ、なっちは。

「なっち頑張れ」というより「なっち、俺も頑張るよ」です。


いやはや、相変わらず、気持ちいいほど気持ち悪いですね。
それではまた。

追記。

ただ舞台を見て、そこに立ち表れている演技や歌に対してのみ感想を持つ、っていうのが、自然なことです。演者やスタッフの背景を色々と考える義務も必要も、本来はありません。ですからそういう態度の人に押し付けがましく「実はなっちはこうなんですよ!!」なんて言う気はもちろん毛頭無いのです。
だけど実際問題としては、演者の背景に言及する形で感想を持たれる方は多い。僕だってそうです。そして、そうであるならば、そういった方々に対しては言っておきたい、ということなんですね。

なっちファンとして『トゥーランドット』に思うこと。

前々回から引き続き、『祝祭音楽劇トゥーランドット』について。
千秋楽公演も大盛況のうちに終了したようでなによりです。
もう一度見たかったなあ、という思いもありつつ、本当にお疲れ様でしたとキャスト・スタッフその他関係者の皆様に言いたいです。それから「ありがとう」を。


なっちは、少しの間でもゆったりと過ごせる時間を得られればいいんですけどね。それは休憩という意味でもそうだし、それとは別に、じっくりとこの舞台の濃密な経験を馴染ませる、みたいなことも必要なのかなと。僕なんかが偉そうに言うことじゃないですけどね(笑)。


結構やっておられるなっちファンの方は多いと思うのだけど、僕も様々な「なっちファンでない方」の観劇の感想を見て回ったりしていました。もうほとんど、自動販売機のお釣り返却口に小銭が無いか確かめて回るみたいな残念さもちょっと自分に対して感じましたが(笑)。
それにしても賞賛のコメントが本当に多くて、以前にも書きましたが、なんだか嬉しくなります。誇らしくすら思う自分に少し後ろめたくなりつつ*1、でもやっぱり誇らしい。
また、東京〜大阪公演あたりの期間は「意外にも安部なつみ*2が良かった」という感想が多かったことに対し、千秋楽が近づくと、やはり事前に情報収集していかれる方が多いのでしょうが、「評判どおり阿部なつみ*3がよかった」になってきて、それもちょっと嬉しかったですね。なっちに対する認識の変化が安定しているように思わせてもらいました。


……という感じなのだけど、やはり複雑な思いは結構あるわけで。いや誤字はいずれ、ってことでいいんですよもう。「なっち」っていう無敵のニックネームがありますし。そうではなくて。


「アイドルをやらせておくのはもったいない」という種のコメントが非常に多く見られました。これが複雑。


まず僕の中には、正直言って、大いに同意する気持ちがあります。僕はやはり根本的には、アイドルとしての安倍なつみじゃなくて歌手・女優としての安倍なつみが好きなわけですから、同意するのは自然なことなんですね。
だけど、反発する気持ちもあるんです。確かにもったいないかもしれない。しかし同時に、世間的にはアイドルとされているという先入観から「実は素晴らしい」表現者を敬遠するような態度も「もったいない」のですよ、という気持ち。……まあ、そのようなことを書かれる方は、その点では認識を新たにしてくれた*4とは思うんですけど。


モー娘。時代とは別物」「一皮剥けた」「相当訓練したのだろう」……という種のコメントについても。全部ある意味でその通り、うんうん、と頷く気持ちがあります。それはもちろんそうです。だけどひねくれ者の僕は少し違和感もまた感じてしまうのでして。


別物と見えるほどに成長しているけど、別物じゃないんですよ、と。今のなっちは、モー娘。としての経験あってこそのなっち。その土台の上に様々なことを積み重ねてきたからあの表現に辿り着いたのですよ、と思います。「モー娘。時代はろくな訓練をしていなかった」わけではありませんよ、その時代の全ての出来事自体が訓練となって、あの歌声・演技だったのですよ、と言いたい。「相当訓練した」というのはその通りだが、それはこの数ヶ月の「直接舞台に結びつく」訓練のみならず、この十年間の「土台をしっかりと固める」訓練のことも含んでいるというのが真実なのですよ、と主張したいです。


短期間の間にレッスンを受けて発声を構築し直せる柔軟さ、開幕後に至るまで刻々と変化するセリフや動きを体に叩き込む力、おびただしい数の周囲の表現者と自分の表現を溶け合わせて昇華させる力、そうした知力と体力。それらをきちんと発露させるための舞台度胸。そしてそんな中でも、常に客を楽しませるという目的に意識的/無意識的に向かうエンタティナーとしての姿勢。全ての根本には、モーニング娘。としての月日があるのです。さらに言うなら、何も持たないただの「夢見る田舎娘」だったそれ以前の時代があるのです。これはデビュー以来常に安倍なつみを見てきた人間として、断言します。


……こんなことを書いて、だからどうなんだという感じではありますが。何故書いたか、っていうのは以下のような思いからであると思います。


「一般ウケ」に対する過度の信仰みたいなものを持ってしまう空気をなっちとかハロプロのファンにしばしば感じますが、まあ色眼鏡で見られるという「アイドル」の宿命に直面してきたファンとしては仕方のない部分もあるとは思います。前述しましたが、僕にも「どこか後ろめたいながら誇らしい」という気持ちはあります。
だけど、そのような「一般」の――特別ファンというわけではない――人々には見えていない(であろう)部分があります。これは批判しているのではなくて、見えなくて当然なのです、もちろん。
しかしそこで、「だけど俺は知っているぞ」と思うのです。「宮本亜門は知っている」ように、俺は知ってるぞと。
なっちのファンとしては是非とも主張したい・しておくべきだ、と思って、このようなかなりひねくれたようにも見える文章を書いたわけです。


まあ、こんな主張が出来るのも、なっちがあれほどの表現を見せてくれたからこそなんですけどね。


次はまた、お芝居の中身に移って。
リューの取った二つのソロについてでも書こうかなと思います。

*1:ファンだというだけでなっちへの評価に便乗して気持ちよくなってるだけじゃねえか、っていう意味で

*2:この誤字がたぶん一番多いですね……

*3:たぶん二番目に多い誤字、ちょっと字面的にさすがに違和感持って欲しいのですが……苦笑

*4:「くれた」とか書きたくない(僕が偉そうだという意味で)んですけどね。まあひとまずこう表現します

徒然に思い出す『トゥーランドット』


前回はとりあえず思いつくところから順に、忘れないように書いていったのですが。なっちに関してはどうにもうまくまとまりません(笑)。色んな時期の色んな感情にまで遡って考えてしまうからなのですけど。


で、自分がかつてなっちの表現についてどんなことを考えていたかなと思って、色々過去ログを漁ってみました。自分の文章を引用というのもアレですが、たとえばこんなの。

なっちには是非、いずれ今回のようなトップレベルのお芝居に、観客としてではなく演者として関わって欲しいと思います。もちろん最初は脇役でいいのです。対象がファンに限られ、主役のなっちを頂点にまとまってしまうのではなく、一人の表現者として作品の一部となり、徒手空拳で挑んでいくなっちが見たい。どこまでも努力家で貪欲に勉強するなっちが(茅野イサムさんの評価を見たときは、本当に涙が出そうでした)そんな機会を得れば、どれほどのステップアップを見せてくれるだろうか、と思います。(id:natsumi-crazy:20051017)


これは、蜷川幸雄演出の舞台をなっちがやぐっつぁんと一緒に観劇した、という話を受けて。これ書いたの2年半前です。たった2年半後に、そのまんま叶ってるじゃねえか、っていう。
うん、これほどのステップアップを見せてくれましたよ。なんか夢みたいです、本当に(笑)。


あと、なっちを抜擢してくれたのは嬉しいけど(してくれたのがプロデューサーさんであったにせよ、宮本亜門さんであったにせよ)、一体どういうことで評価をしてくれたのだろう、と。以前「見ていてくれる人はいるんですね」なんて感無量な感じに書きましたが、具体的にそれはどういう場でだったのか、とか思いまして。


で、過去ログを見てみると、『白蛇伝』のとき。僕は音楽担当の広瀬香美さんの近年の活躍について調べているのですが。

この方は自身の歌手活動でももちろん有名ですが(中略)演劇の舞台に関しても、宮本亜門さんの舞台の音楽監督なんかをされています。


俺、書いてるじゃないかっていう。ここじゃないか?
色んなところ調べてみても、なっちがキャスティングされた経緯が語られてない気がするんですけど、推測してみるに、ここなんじゃないかという気がします。
たぶんね、僕は広瀬さんについて書いてるとき、うっすらと「これで広瀬さんつながりで亜門さんが観劇に来られたりして、なっちの熱演に光るものを感じて自らの舞台に抜擢、とかあったらいいなあ」なんて妄想をしていたに違いないです(笑)。
実際そうだったのかどうかはわからないですが、でも、結果そんなことになっているという驚き。積み重ねることは無駄じゃあないんですね。というより、それこそが一番大切なことなんですね。ほんとに。


いやはや。


ところで、『トゥーランドット』そのものについて。
森雪之丞さんって、正直言って作品に対して「うわっ、やられた!」っていう感想を持つことは無かったのですね、今まで。もちろん、「凄い人みたいだ」という印象はありました。たとえば僕が小さい頃からず〜っと歌っていたアニメ『ドラゴンボールZ』の主題歌『CHA-LA HEAD-CHA-LA』は森さんの作詞だと後で知って、「おぉ〜そうだったのか」って思ったり。でもこの歌詞も正直、いまいち意味がわからないんですよね(笑)。まあ子供向けアニメの歌だから、意味というより抽象的なカッコよさ、アニメの雰囲気を盛り立てる言葉たち、という意味で素晴らしかったけれど。


ところが。今回のクライマックスで歌われる『運命は遠い日の約束』。この歌詞カードがパンフレットについていて、メロディーを思い出しながら言葉を追ってみたら、凄い。


「あなたと逢うために 誰よりも この世界で 孤独だった」とか。
「あなたとあたためあう そのために 指はいつも 凍えていた」とか。


この言葉の選び方もさることながら、この短いフレーズにある物語性そのものが「運命は遠い日の約束」ということを語っている、という点がもの凄い。天才的だなあ、と。


そんなことを思いながら、劇を思い出しているのでした。


どうでもいいけど、サントラCD的なのは出ないのだろうか。
多分名古屋にもう一度見に行くのは難しいから、WOWOWでの放送を楽しみに待つ以外に無いのだけど。でも欲しいなあ。素晴らしい歌ばかりだったし、CDだけで伝わるものではないにしても、CDにして残すという形も取らないと勿体無い。


そうじゃなかったら「再演」です(早くも何言ってんだって感じですが)。
ああ、今すぐにでも、もう一度あの舞台を見たいです。


まあもっとも、「?」という点もたくさんあったのは確かなのですけどね。例えばカラフとトゥーランドットの間の絆の描写が少なすぎる、とか。
まあそういうことについても、また書こうと思います。思いますけど、ああ、もう一度見たいなあ……。

まだ書きたいほどが山ほど。


まとまらないので、役者さん別・あるいは要素別に書いていこうかなと。


岸谷五朗さん(カラフ)
岸谷さんはテレビ出演が多数ありながら、もともとは舞台から積み上げてきた役者さんですよね。実は舞台での姿を見たことはありませんでしたが、凄い存在感でした。「凄い」というのは、ただオーラが出ているとかそういうことだけでなくて、舞台に立っているだけで、その場の表現のみならず「文脈」をも表現すると言う点です。前述したこととも重なってきますけど。
「文脈」というのはつまり、その人物が積み重ねてきた人生そのものとも言えるでしょう。「今いきなり舞台に現れた、これこれこういうキャラクターですよ、って設定された人物」じゃないんですよね。生まれて今に至るまでのカラフを、全て背負い込んでいる。これぞ俳優さん、という感じです。特に重い過去を背負うカラフという役には、これぐらいの格が必要なのだなと感じました。僕が初めて岸谷さんの演技に圧倒された、映画『月はどっちに出ている』でも同じようなことを感じていたなあと思い返しました。圧巻。
歌唱についても、歌い手としてはプロの方ではないにせよ、かなり上手だと感じました。重量感の有る低音。クライマックスのアーメイさんとの歌唱は、アーメイさんに持っていかれるのではなくて、無骨で不器用なカラフの内面にある優しさでもって「寄り添っている」ように感じました。


・アーメイさん(トゥーランドット
僕は初めて歌声を聴いたのですが、「アジアの歌姫」は伊達じゃない。凄かった。なるほど「女帝」、という感じです。有無を言わせず聴き手の心を支配するような、妖しい繊細さと力強さを備えた、素晴らしい歌声でした。数万人の観衆の心を一挙に掴むわけです。
一方で、確かにセリフはちょっと……もの凄い努力の跡は見えたのですが、しかし日本人の耳で聞くと違和感が残る部分はありました。母語以外の言葉での演技で評価するのはフェアではないですが、演技そのものもなかなか伝わりにくかった。
だけど、彼女の出演することになった経緯(ケリー・チャンが怪我により降板、代役となった)を考えれば、少ない準備期間でよくぞあそこまで、と思います。日本語の拙さより、むしろその努力を素直に賞賛したい。
それに、パンフレットの5人の座談会でも岸谷さんが指摘されていましたが、歌における日本語は本当に綺麗でした。素晴らしかった。なるほど、歌声で・メロディで伝える人なのだなと納得。まさに歌姫でした。


中村獅童さん(ワン)
この人については、「歌舞伎界の異端児」という認識はあったのですが、きちんと演技を見たことはそういえば少なかったなと。映画などで何度か見た記憶はあるのですが、僕が見たのはいわゆる「怪演」という役柄のものが多かった気がします。そうした演技を歌舞伎界の方がされるという点に驚き、また卓越した引き出しの多さと懐の深さをもった方なのだと思っていました。
今回のワン将軍ですが、女帝トゥーランドットの「冷血」っぷりの実質を体現している役として存在しながら、しかしその実には苦悩、懊悩、コンプレックスだとか支配欲を渦巻かせているという点で、最も人間臭いキャラクターの一人でした。確固たる存在感が先に立ち、そして後に強烈なその存在を揺らがせることで、その泥臭い人間味を見事に表現していたと思います。
ところで、ワン将軍は、宦官ミンと並び、劇中で死にゆくキャラクターの中で最も悲しい存在だと思います。リューやティムールは、自らの思いを貫く過程で、貫くべき方向をしっかりと見据えたままに死んでいきました。ところがワンは、最期にはそのような思いを得た――のか、どうなのか――ものの、しかし彼は、ねじれたトゥーランドットへの愛から謀反を起こしてしまい、既に後戻りのできない所まで来てしまっていた。そして、遂には自害するわけです。その武人としての散り際は哀しくも見事なものでしたが、彼の生涯を思うと、同情を禁じえない部分は山と存在しますし、やりきれない気分になりました。そんな強烈な余韻を残してくれた獅童さんは、やはり凄かった。
歌声も、独特の低いだみ声で強引にまとめた感じが、僕は好きでした(笑)。


早乙女太一さん(ミン)
一般的には、最近急速に名前が知られるようになった方だと思いますが、いやあその流し目を最前の席で目撃したかったなあと(笑)。本当に。
多くのキャラクターが、不器用であったりねじくれていたり、あるいは真っ直ぐなものであったりするそれぞれの愛を抱えている中、「人を愛せなくなってしまった」という苦悩によって「愛」を描き出すという難しい役柄。まして宦官という設定。普段から女形をされているとはいえ、やはりそこには大変な苦労があったことと思います。しかし良かった。なんと言っても「身のこなし」が素晴らしく美しい。このキャラクターは歌うことはしないのですが、その美しい身のこなしは、特にリューとの場面において、リューの美しい歌声と「響き合う」ようにして、愛に満ち満ちた場面を創り上げていたように思います。愛し方がわからなくとも、この人物は最初からずっと、外には出せない自らの愛を秘めていたのだ、ということを見事に表現していました。
独特のねばっこいセリフ回しはこの役者の特徴的なものなのか、それとも役に合わせたものなのかはわからないのですが、最初は少し気になったものの、徐々に気にならなくなりました。少なくともこのミンという役柄にはとてもよく似合っていました。
でも、彼が上半身裸で鞭打たれる場面になり、一斉に近くの席のオバサマ方がオペラグラスを取り出したのはなんとも……(笑)。いや、なっちファンがどうこう言えることではないのかな。ははは。いいけど隣のオバサン、いちいち一緒に来ていたダンナに「ホラ、太一くんよ」って耳打ちすんのやめてくれよっていう(苦笑)。
まあそれはともかく、この早乙女太一さんという方は凄いですね。まだ16歳って。今後も程よく、外部の芝居にも出て欲しいと思いました。


北村有起哉さん(物売り)
この方は本当に素晴らしい。この方抜きには絶対に、強烈な個性揃いこの舞台における統一感は得られなかったと思います。例えば前述したような冒頭のシーン。開演直後の、まだ物語に入り込めていない観客に対して、つかみ所の無いような飄々とした演技で、スッと入り込んでくる器用さ。いまいち信の置けないお調子者でありながら、憎めない存在のキャラクター。
狂言回し」的存在ともいうべきでしょうか、それに相応しい、鮮やかなほどに自由自在の存在感でした。あっという間に存在感を出したり引っ込めたりと、舞台において足りない部分を全部埋めて回っているような感じ。その身のこなし、安っぽくないが親しみやすいユーモア。全身全霊の「舞台人」だと思いました。文句無しです。もう、パンフレット等の写真の写り方まで素晴らしいと思いませんか。いやあ、大好きになりましたよ(笑)。お父様も著名な方ですし、前々から名前は存じ上げてはいたのですが(重要な演劇賞もたしか受賞されている)、素晴らしい役者さんだと思いました。


小林勝也さん(ティムール)
この方の「静かなる存在感」はさすがの一言でした。例えば、前述した序盤のカラフとリューの場面でも、特にセリフを発することが無くても、というか、セリフも動きも無くとも存在感を静かに表出させるということをされているから、ただの「カラフとリューの対話」ではなく、「それが為されている空間」が出来上がるのだと思いました。
あれはどういうことなんだろう(笑)。やはり長く積み重ねて来られた経験の重み――だけでは済まないですよね。うーむ、とにかく、凄い。なんかアホっぽい感想になりますけど、それしか言えないです(笑)。とにかく、北村さんが「動の舞台俳優魂」ならば、小林さんが「静の舞台俳優魂」を注入していたことは確実だと思います。本当に凄かった。



久石譲さん(音楽)、ワダエミさん(衣装)
なんというビッグネームか、とお名前を打って改めて思いました(笑)。


久石さんの音楽については、僕ももちろんご多分に漏れずスタジオジブリの映画などで親しんでいますし、以前から大好きでした。心地よい親しみやすいメロディーでありながら、一方で「心をひっくり返される」ような驚きを与えてくれる楽曲の数々は、今回の舞台でも変わらず。本当に素晴らしかった。だけど、なんというか、CDとかが欲しいなあ、と(笑)。記憶だけでは細かな感想を書くのは難しいです。


一点だけ。
僕はそこまで音楽的なことに詳しいわけではないので、見当外れな指摘なのかもしれませんが、一つの作品の中の様々な場面の曲に跨って、同じ「テーマ」を共有させることによって一貫性を持たせる、っていう手法がありますよね。何か用語があるのかもしれませんが……。
たとえば、わかりやすく久石譲さんの楽曲でいえば、『魔女の宅急便』において。


http://players.music-eclub.com/?action=user_song_detail&song_id=5841
この『海の見える街』という楽曲(とても有名ですね。大好きです)のメインのメロディ(12秒あたりから)の印象的な旋律がありますよね。これに対して、同じ『魔女の宅急便』の中の、


http://players.music-eclub.com/?action=user_song_detail&song_id=155080
この『おじいさんのデッキブラシ』という楽曲(キキが落下の危険にあるトンボを救出に行く場面の曲です)、これの冒頭。
メロディーに共通性を持たせて、全く違うアレンジでありながら、作品全体としての統一感を持たせていると思うんですね。たぶんそういう「手法」なのだと思うのですが……。


同じように、『トゥーランドット』でも、たとえばリューの歌う「♪報〜われなくても〜」という部分。これと共通する旋律が、他の楽曲の随所で聴こえてきた……ような……うーむ、自信薄なのではありますけど(苦笑)。そんな企みが裏に秘められていて、それも手伝って統一感を得ることができたのかな、なんて、ふと思ったりしました。
どなたか詳しい方に教えていただけるといいんですけどね……(笑)。という。


また、衣装について。
僕みたいにハロプロの舞台をよく見ていると(最近はそうでもないけど)、特にいつも思うのは、なんというか、まあ端的に言うと「衣装の安っぽさ」なんですね。舞台上での映え方の代償に、そういう安っぽいことになってしまっていると思うんですが。とにかく安っぽい。学芸会じゃないんだから、といつも思います。
しかしワダエミさんの衣装は、そんな所とは対極にありますよね(比較に出すのも失礼な気がしますけど)。細部までこだわり抜いて丁寧に丁寧に作り上げていて、しかも演者の個性や脚本の滋味を完全に把握し切っている。だからこそ、美的な表現と現実的な必要性を兼ね備えた、衣装そのものが表現として成り立つ、そして演者と化学反応を起こしてより良い表現になる、というような衣装になるのだと思います。
パンフレットに、衣装に使用した布の切れ端が、オマケとしてついてきました。あれをまじまじと眺めるに、うーむ、凄い……と感嘆してしまいます。「そんな細かい細工は観客には見えないだろう」とかいうこと自体が無粋そのものですね。根本的にそういう発想で作っていない。そうではなくて、いかにリアルなトゥーランドット国を実在させるか、という発想なのでしょうね。これぞ表現。凄かったです。



……といったところで、ひとまずは終了。
なっちの話をするのは、もうちょっと考えてみないと難しいです(笑)。