「たからもの」感想 3(ネタバレを含みます)

実質、昨日の更新と同日に書いてるんですけどね。深夜になってからもう一度見てみました。ちょっとは冷静に見れたかな…っていうか、冷静に見る必要なんて別に無いんですけどね。評論家なわけでなし。だけどやはり、落ち着いた気持ちで見ると色々な発見がありました。まずはちょっと瑣末な所から。


発見というか、疑問というか、という感じなのですが。千がサラダを食べる時に、何かの箱を開けてますよね。お菓子みたいなの。で、そのオマケみたいなキャラクターのマスコットみたいなものを取り出しています。その後、メールでナオキに別れを告げられるあたりでもその箱が登場してます。ありゃ一体何なのだろう?
<追記>
色々見ていたら、いつも僕が勝手に一方的にお世話になっている「なっちこと安倍なつみHISTORY」の管理人さんのブログ、「ぺーちゃん雑記帳2」さんに、そのお菓子についての記事が。なるほど。ドラマの撮影時期に関するヒントまでわかりました。情報に感謝です。ただ、それにしても特別な意味があったのかどうか、ってことがよくわからないですね。単純に、ああいう些細な「お菓子のオマケ」なんてものを心の慰みに、どうにか頑張っている千、ということなんでしょうか。僕が気にしすぎなのかなあ(笑)。


それから、もうちょっと描写して欲しいと思ったのが、例えばお父さんの時計。震災発生時刻の5時46分で止まっているんですよね。あざとい強調は必要ないけど、あれでは注意して見ないとよくわかりません。「再び時計を進める」ことがキーなのだから、あそこはもっとわかりやすくして欲しかった。


もう一つ。「千」という一風変わった名前には、その由来に何か両親の特別な想いがあったのではないか、ということ。無いなら無いでいいですが(笑)、だけど変わった、そして素敵な名前です。「千」。そのあたりの描写もあって欲しかったなあ、と思います。そういえば主題歌のCDは「千」名義でリリースされるわけですが、ならば千には「ミュージシャンを目指している」とかの設定があっても良かったのではないかなあ。まあ、それはいっか。


ともかく、これらの部分を含めて、2度目に見たときには「ちょっと足りないかな」と感じました。尺としては30分できちんとおさめることもできるかと思います。無駄が色々とあり、かつ不足も色々とあった気がします。昨日の更新の繰り返しになることは書きませんが。


それでも初見の際に「きちんとまとまって完結している」と感じたのは、全体的に見るのではなく、千=なっちにかなりの比重を置いてドラマを見ていたからだろうと思います。なっちは、説明臭いセリフは少なくとも、微妙な心の揺らぎ・変化といったものを表情や仕草・空気感で表していて、それがきちんとつながりを持って流れていました。そのあたり、本当にさすがだと思います。


震災の悲惨さの描写が必要最小限だったのは良いと思います。本当はあのニュース映像のようなものの挿入も無くて良かったのだけど、まあ仕方ないのかな。
死者が何人、建物がどれだけ崩壊して……というような全体的なことを伝えるのが報道の役割ならば、表現者が伝えるべきことは、その一人一人についての「例えばこういう傷を負った人がいる」ということのリアリティです。この脚本を書かれた方がどのような取材をしたのか、モデルとなった人がいるのかどうか等はわかりません。しかしフィクションであれなんであれ、人間の営みを人間が演ずるということのリアリティを感じられる場面はいくつかあって、それが良かったと思います。
例えば、父親を亡くした15歳の千に「頑張って」と声を掛ける、親戚だか近所の人だかのオバサンたちの描写。それに対する千の心理の描写(村上さんの表情が素晴らしかった)。直接の体験ではないにしろ、ごく身近にこの場面がオーバーラップする出来事があって、実にハッとさせられました。そうなんです。きっと、それ以上に残酷で無責任な「頑張って」は無い、というほど酷いことなのです。


膨らませるネタは、素人目にもいくらでも思いつきます。千が東京で何をしていたのか。バイトの傍ら追っていた夢があったのではないか、ということ。その様子だとか、それまでの過程だとか。あるいは、震災の時の千の動揺。ああまで心を閉ざしてしまうまでに経験したであろう出来事など。


だけど、さすがに不足している部分はあると感じるにせよ、コアの部分はきちんと描かれていました。
例えば、千の心の閉ざされ方は最初の数分で十分すぎるほどに伝わりました。なっちが「心を閉ざした」演技をすると、本当に鼻先で「ピシャッ!」とドアを閉める音がするように感じるほどに強烈に「閉じている」んですよね。普段思いっきり「開いている」姿を見ているからというだけの理由ではないと思います。あれは本当に凄い。
それから、彼氏へのメール。メールを使った描写なんて今の世の中では当たり前なのかもしれませんが(最近のドラマをあまり見ないのでわからない)、ただあの「いいよ」という3文字が刺さりました。「いいよ」。「別にそれでいいよ」という意味、「どうでもいいよ」という意味。千の表情とあいまって、様々な心の様子が伝わってきます。
そして、15歳の千が一人涙を流すシーンと、それにかぶさって回想する現在の千の静かなトーンでの語り。あの場面が10年間の月日の描写を埋めているように感じられました。ついでに「この子が10年経ってこうはならないだろう」という疑問も封じていたかもしれません(笑)。でも本当に、見た目はともかくとして、表現の面でかなり自然に二人の千がリンクしていました。またキッズヲタ扱いされそうですが(笑)、村上さんはセリフ回しの拙さを補って実にいい表情をしていました。そこまで多くの演技経験も無かろうに。いやあ、感心しましたよ。


「映像表現は小説などと違って全てを伝えてしまうから、それを見て育った子供たちには想像力が欠けている」などとのたまう人がいます。それは大きな間違いだと僕は思っています*1。映画であれなんであれ、本当にいい映像作品というのは、時間軸・空間軸の両面において、画面の外への想像力を喚起するものです。大切なものは画面の外にあって、それは観る者の想像力に委ねられているのです。映像表現をする側の役割はあくまで、ストーリーや設定、そしてコアとなる表現を提示し、観る者の想像力をアシストするということだと思います。


そういう意味で、不満な点は色々あるにせよ、この作品はかなりの佳品であると思います。最小限の表現(表情の動きや感情の発露、セリフの量が)で最大限の想像力をかき立てるということができるなっちの演技力は相変わらず素晴らしかった。というか、短いからこそ、今まで以上にそれが磨かれていることを感じることができました。そしてそれが作品を支え、また作品に芯を通していたと思います。
心がゆっくりと溶けていく様子が、じっとビデオの画面を見つめて涙を流すということで表現されていたのは凄いと思いました。そして、唯一の感情があふれ出る場面。ビデオを一時停止して在りし日の父の笑顔に呼びかける「お父さん」というセリフ。予告編でも描かれた場面ですが、なるほどこれだけの感情が込められていたのかと、本編を見て改めて思いました。父の映った画面をなぞる指の動きにまで、細やかな神経が行き届いているように思えました。


加えて、お父さん役の俳優(小市慢太郎さん)と村上さんの掛け合いは、多くない描写でありながら、母を失いながらも幸せに暮らしてきた父と娘の日々を想起させるに十分なものでした(さらに幼い千を演じた子役の子も上手でしたね)。村上さんの、防具を脱いだところで「千!」と呼びかける父のほうを向く時の表情がとても良い(なんか褒めてばっかですね。でも本当に感心しました)。それに、時計をプレゼントした時のお父さんの表情がこの上なく優しくて良かった(そして、とても悲しかった)です。


年内いっぱいの放送のようですね。もう何度でも見たいです。また新たな発見があることと思いますし。不足な部分を指摘して嘆くよりは、もっともっとこの貧困な想像力を回転させてなっちの演技を感じたいですね。それだけのものを、なっちは提示してくれていますから。

*1:例え現代の子供達に想像力が欠けているとしても、映像表現に責任を求めるのは間違いだということ