なっちと僕についての、2005年の総括

なっちについて

今更どうこう言うことはありません。かつてないほどタフでへヴィーな一年だったと思います。同時に、彼女はもしかするとそれを、かつてないほど濃密な一年にすることが出来たのかもしれないと思います。歌うことへの情熱・歌えることへの感謝。そんな当たり前かつ一番大切なことを、彼女はより深く心に刻みながら歌っていると感じます。最近のライブなどを見ていると特に。それぞれの曲やライブについては、その時々に書きましたので詳述はしませんが、ともかく今年の彼女は「高まっている」というより「深まっている」ということを感じさせてくれました。


なっちはあるとき、多分意識してのことではないだろうけど、「歌で伝える」ではなく「歌を伝える」と表現していました。それがあまりにも格好いいと思います。その伝えるべき「歌」とは何か。それは彼女の魂そのものなのだと、ステージに立つ彼女の姿は主張しているように思えました。これからもそんな彼女に憧れたり、胸を高鳴らせたり、見惚れたり、時には嫉妬したりしていけるということはとても幸せです。

僕について

劇的な出来事が幾つもありました。決してそんなことはしないであろうと思っていた、大規模な活動。葛藤や苦悩。そして喜びがありました。その後も色々な人と出会いました。例えばこのブログでいつもお世話になっている個性豊かな方々。時に自信をなくしてしまう自分自身は差し置いても、「なっち、あなたはこんなに素晴らしい人々に支えられているんですよ」と思うことが出来ます。心強い、というとおかしな表現かもしれませんが。なっちを取り巻く「状況」あるいは「情況」についてのリアリティを得られたともいえるかもしれません。
何より、一対一の人間同士として、「何々を・誰それを好き」ということで共感し合えるというのは、素敵なことです。それがなっちについて、なっちの表現についてであることが一層嬉しい。


ディナーショー。この経験は、誇張抜きに記念碑的なものでした。今も、あの日なっちと一緒に撮った写真を見て、当時に書いた文章を読み返して、その気持ちを思い返します。「この人を好きでいて本当に良かった」と思えました。


なっちを応援することについてのエゴ的な部分についての葛藤を書いたことがあります。それは自然なことなのかもしれないとも思いました。今もなっちに、僕は自分のうちに渦巻くある種の感情を(特に負の感情や、それへの抵抗を)投影します。様々な残酷さへの怒り。誠実さが報われないことの哀しさと、それを乗り越える気概・勇気。それは一種の逃避かもしれません。
だけど僕にも意地があります。一対一の生身の人間同士として、ほんの僅かな時間ではあれど、あの時なっちと言葉を交わしたのです。自分を丸ごと彼女に投影して――過激な言葉ですが――代理戦争のように彼女の人生を眺め、自分の戦いは放棄して緩慢に過ごすようなことはしたくない。どこまでも、命懸けで生きている彼女と対等でいたい。


ファンとしてなっちのためにできることとは何か? 例えばそれは、僕が僕の人生を精一杯に生きることだと思います。もちろんそれは、なっちのためにすることではありません。僕自身のためです。だけど僕の心にはいつもなっちの歌声があって、それに励まされていることは確かです。なっちはきっとそのために「歌を伝えて」くれているのだと思うし、きっとなっちは――結果としてであれ――そのことに微笑んでくれると思うのです。もしかすると、それが全てではないかとも思います。

というわけで

あまり「総括」っぽくないですが(笑)、僕が今年考えたことの簡単な総括にはなっていると思います。


ともかく、以上のようなことを考えるうちに、やはりどうしても更新を停止せざるを得ないと考えました。停止のご挨拶はまた日を改めてさせていただきます。