「そこにいないこと」の存在感

僕のお話。
東京の住宅地ど真ん中にある実家で暮らしていた頃は、例えば授業が休講だったりしてダラダラと昼過ぎまで寝ていたりすると家人に叱られたり心配されたり、ということがありました。
そんな状態から、もうとても若いとは言えない年齢の両親を地元に残して京都に学問をしに来たわけです。もともとダラダラと群れたりするのが苦手な僕は*1この古都の盆地の端っこに、それこそ家から出れば山がそそり立っているような場所に居を構えて一人ぼっちで暮らしていると、誰からも忘れられてしまったような気分になります。それこそ、ボケッとしていると、一日誰とも会話をせずに過ぎてしまうこともあるのです。
だけどたまに実家に電話をすると、母親から「なかなか(あなたがいないことに)慣れないわよ」というようなことを言われます。「僕がいないということ」が逆に存在感となっているのかなあ、と思い、つくづく家族っていいものだなあと思うのです。俺にもちゃんと帰る場所があるのだ。とーちゃん、かーちゃん、俺ちゃんと勉強するよ!!(笑)


で、心温まる(?)お話から唐突に普段どおりのノリに。


あまり意識して見ることは無いのですが、野球中継のCM中なんかにチャンネルを回してみたりすると、辻ちゃんが一人でバラエティー番組に出ていたりするのを最近よく見ます。ああ、頑張ってるなぁ…と思いながら、やはり違和感を禁じえません。彼女が一人でいることに対して。


その「違和感」そのものが、加護ちゃんの存在感なのかなあ、と。二人で一つだけど、だからこそ一人で二人ぶんを見せることができる。穿った見方かもしれないけれど、辻ちゃんが一人で頑張っていることが明らかにしてくれる欠落感。それを抱えながら彼女が頑張っている様子は、加護ちゃんが帰ってくる場所を必死に守っているようにも見えるのですね。


僕みたいな、どこまで行ってもなっちファンであり、Wの二人のことを「なっちの大切な仲間」という見方しかできない人間の中にも、このような欠落感があります。様々な人の中にそれがあります。僕なんかとは比較にならないほど大きい欠落感を抱える人もいます。立場も僕とは全然違うけれど、なっちの中にだってとても大きなそれがあるでしょう。ハロプロの仲間たち皆の中にも。


僕は、彼女が戻ってくるまで、僕なりの欠落感をを守っていきたいと思います。欠落とは埋めるべきもの、つまり、彼女が帰ってくる場所なのだから。


うん。そう思います。あの頃を思い返してみても、やはりそう思います。唯一無二の存在への想い。「推しを変えればそれで済む」ような軽薄なものとは全く違う想いって、やはりそういうものです。

*1:友達がいないわけではないですよ(笑)