自分の言葉というけれど――246を突っ走る その2

自分の言葉で語ることってそんなに簡単に出来ることなのかなあ。ていうか、「自分の言葉」って何でしょう。言葉って皆と共有しているから意味があるものだし、なあ。


もちろん、たとえば「他者に阿るとか迎合するのではなくて、主体的に自らが考えたことを言葉で表現したもの」を指して「自分の言葉で語る」と言ったりするのはわかりますよ、そんなことは。だけど、それ自体厳密に考えると非常に難しい問題だと思うんですよね。


僕自身の自問自答という面が大きいのですが、「自分の言葉で語るように心がけています」とか安易に言う前にちょっと考えてみなくてはならんのである、とふと思います。何を当たり前として、何を前提として語っているか。その「当たり前」は本当に「当たり前」なのか。人々が当たり前のことと扱っているから、それに流されているだけではないのか、とかね。


せめてそういう逡巡をそのままに表現してみるというのが関の山なのではないかなあと思ったりします。特にこのブログのように「生身の人間対生身の人間」というのがテーマになっているブログなんかでは。そこで語られるべき言葉を表現するには、「自分の言葉」というより「自己への言葉」(時には「他者への言葉」)という表現が適当な気がするなあ。あいまいな逡巡でいい。だけど、謙虚に見せかけた卑屈さで自分の安っぽい美学を慰めるようなことはしない。あくまで「私として立つ」ことを全うする、そのように努力する。そういう姿勢での「自己への言葉」。


なんだかよくわかんなくなってきた。


あと一つ思うことっていうのは、「何を語るか」と同じぐらい「何を語らないか」って大事だと思うんですよね。色々なブログを見ていて、「ああ、この人は〜〜のようなことは絶対に言わないんだな、そういうのいいなぁ」っていうことが結構あります。長く見ていないと、つまり文脈が見えていないと実感できませんけどね。しかも、「語られないこと」に対する感想ってなかなか書く機会が無いんですね。まさか突然コメント欄に「〜〜と書かれていないことが素晴らしいです」とか書けないし(笑)。まあでも、そういうことに着目すると色々なことが見えてきたりするかなぁ、っていうことを最近感じております。


普段から文章を拝読している色々な方が色々な立場で色々な姿勢で色々な幸せな気持ちとか怒りとか悲しみを書かれているのを見て、なんかごちゃごちゃ思うわけです。難しいなあ。なんかすっげー頭悪そーな文章になってしまった。


眠いのう(徹夜なんです)。寝まふ。