歌うこと

2年以上も前。大好きなバンドが公開収録を行うことを番組HPで知った。FACTORYの収録だった。偶然見つけたその収録に行きたくて仕方が無かった。結局、受験生としては行くわけにはいかない時間帯の収録で、涙をのんだ。ずっと後ろ髪を惹かれる思いだった。何かの予感だったかもしれない。
後日、事前に何の発表も無かったそのオープニング・アクトを務めたのがなっちだったことを知った。激しい後悔はオンエアを見てすぐに吹き飛ばされた。こんなにも凛々しく美しいなっち、初めてのなっちを目の当たりにした。強烈な体験だった。生バンド(豪華なメンバーの!)を背に、ブルーハーツを歌い、喝采を受けるなっち。想像もつかなかった光景だった。
何より大きかったのは、その場になっちを観るために集った観客は一人たりともいないということであった。その日のメイン・アクトはROSSOとLOSALIOSという豪華な顔ぶれ。偉大な音楽を生み出してきた筋金入りのロックンローラーたちのライヴを観に、筋金入りのファンたちが集まっていた。そこにあたかも「放り出された」かのような安倍なつみ。暗転したステージの背後のスクリーンに、"natsumi abe"の文字が映し出される。坂崎幸之助アコースティック・ギターがイントロを奏でる。スリー・コードのシンプルなメロディー。ゆっくりと舞台が明るくなる。マイクを手に姿を現す小さな少女。
果たして、その時に起きた喝采は好奇の色彩を帯びていた。トップアイドルグループの中心メンバー、誰もが知る存在。しかし恐らく、歌手・安倍なつみを、その場にいた誰もが知らない。
好奇の視線を彼女は感じただろう。しかし怯まず、両の足で彼女はステージを踏みしめ、マイクを片手に、全身でリズムを刻んだ。笑顔はない。派手なアクションも無い。歌うことだけがそこにあった。
”僕の話を聞いてくれ 笑い飛ばしてもいいから”
最初のフレーズで、小さな少女は歌手になった。ロック・ファンならば誰もが知る、真島昌利の手になるブルーハーツの名曲、チェインギャング。3つの驚きがここにあった。思いもよらぬこの曲がその場で歌われること。それを歌うのが安倍なつみであること。そして、安倍なつみの歌声には確かに魂が感じられること。
誰も笑い飛ばしたりなどしなかった。
歌詞を間違えても動じない。歌手・安倍なつみは歌った。観客の心をつかんだ。地味な服装で、一歩も動かずに、ただ歌を歌った。好奇の眼差しは驚きへ、そして真剣なものへと変わる。音楽がそこにあった。
”どこでもいつも誰とでも 笑顔でなんかいられない”
この歌詞をなっちが歌うことは強烈な印象を残した。戦慄にも似たと言えるほどの感情を覚えた。笑顔のなっち、誰がそのイメージを作ったか。ちょうど昼無しに夜が存在しないように、冬を越えてこそ春があるように、深い悲しみや痛み無しには素晴らしい笑顔は存在し得ない。彼女の笑顔は想像力を突き抜けて痛みや悲しみをも伝える。彼女の歌声は彼女の表情そのものだった。どこでもいつも誰とでも、笑顔でなんかいられない。こんなにも鋭く、攻撃的で、海のように悲しく、しかし春のように優しく、強い彼女の歌声を聴いたことは無かった。この体験が大きな分岐点だった。歌い手、安倍なつみ。その存在は唯一無二のものだと、確信した。
この選曲は、なっち自身によるものだったという。