安倍なつみ5thシングル『恋の花』

いつもの如く、ハロプロに優しい新宿タワーレコードにて購入。フラゲ日には都合によりどうしても買えず、しかしきちんと発売日には買うことが出来ました。


ラジオの音源を何度も何度も繰り返し聴いたものの、やはり初めてCDを聴くときにはなんだかそこはかとないヨロコビが湧いてきます。パッケージを剥がすのももどかしく、CDをウォークマンにセットして再生する瞬間のヨロコビ。大切にしなくてはいけない気持ちだと思いました。このたった数分の歌のためになっちがどれだけの想いを巡らせたか。どれだけの試行錯誤を繰り返して創り上げたか。


なっちは各メディアのインタヴュー等で、既にこの曲についての想いを色々と語っています。つんく♂プロデュースから離れて歌うことへの不安と意気込み。アルバムが出来るほどの時間をシングルの録音のために費やしたこと。全ての表現を自分自身で一から創り上げたこと。そして、ハワイに行かれた方のレポ等で目にしましたが、その自分の表現を受け入れてもらえるか、とてもとても心配していたということ。


以下、フリーペーパー「New Can Magazine」でのインタヴューからの引用です。


●今、<安倍なつみ>としての創作意欲が…


――うん、すごく高まってますね。(中略)周りの人と一緒に曲を作っていく段階を経て、改めていろんなことを感じたり学んだりしている段階で、まだまだ自分は進んでいきたいと思っています。


何気ない質問と回答ですが、僕はこれが涙が出るほど嬉しかったのです。id:natsumi-crazy:20050429でも触れましたが、なっちが一つずつ段階を踏んで、音楽を創り始めているということ。これがたまらなく嬉しいのです。


そんなことを思い返しながら改めて聴いた『恋の花』、そしてカップリングの『愛ひとひら』。もう買ってから何度も何度も何度も繰り返し聴いているのですが、インタヴューでなっちが言っていたことの意味が改めてよくわかります。「つんく♂の仮歌をお手本に歌う」ことと「全て自分の表現で歌う」ことの間に表面的な違いがあるわけではありません。それでも、曲を何度も繰り返し聴いていると、何かしら今まで感じたことのなかった印象を感じるようになりました。表現が難しいのですが…。


なっちは「小さい頃からとにかく歌うことが大好きだった」という話をよくします。先日のディナーショーでもしていました。なっちにとっては常に、歌というものは「聴くもの」ではなく「歌うもの」だったのだろうと思います。声を出していなくても、耳から入ってくる歌に合わせて心の中ではいつも歌っていたのだと。そして、なんだか紛らわしい表現になりますが、そんな聴き方こそが本当の意味での「歌を聴くこと」なのだと思います。


なっちがそんな風に「歌」をとらえているのなら、一から創り上げた自分の表現を受け入れてもらえるかどうかをそんなにも(『恋の花』が好きだというファンの声に涙してしまうほどに)不安に思っていたことがよりよくわかります。「聴くことと歌うことは別々のことではない」、漠然とであっても、なっちにはそういう感覚があるのでしょう。


だからこそ、なっちは聴き手のことを深く深く考えてくれるのだと思います。例えば以前、なっちはラジオで「感情が昂ぶりすぎて、表現の押し付けのようになってしまってはいけない」という内容のことを言っていました。なっち自身が素晴らしい聴き手であるからこその、歌い手としての気持ちだと感じます。


そんななっちが膨大な時間をかけて丁寧に録音したという今回のシングル。心に迫るものが無いはずはありません。『恋の花』には、まるで耳元でなっちが歌ってくれているかのような感覚を覚えます。曲を聴くことでこんなにもなっちを近くに感じたことはかつてありませんでした。歌への愛情、聴き手への愛情。それが十分すぎるほどに伝わってきます。


道に迷うときは ほら聞こえるでしょう
この愛を唄います


(『恋の花』より)


まさに、なっちはこの詞を歌うに相応しい歌い手だと感じました。「愛」を目的語として人は何が出来るか。「与える」、「奪う」、「生む」、「殺す」。色々な言葉が浮かびます。そして、なっちは「唄う」ことが出来る人です。そして、僕は――おそらくは――それを「感じる」ことが出来ています。


同じ想いの人が多くいればいいな、と思います。少なくとも僕という一人の人間はきっと、なっちの歌で、なっちの愛を感じています。ああ、なんと幸せなことか。