Decade of Support その0(はじめに)

というわけで、マイペースにちょっとずつ、この10年なっちを好きであり続けてきたことを振り返ろうと思います。時期的にも、これを始めるのにいいかもしれません。


まあまとまりのあるものにしようとは思わないので(そういう風にすると絶対に挫折する)、あっちへ飛び・こっちへ飛びしながら書いていこうと思います。あと、過去の映像とか資料みたいなものはあえて参照しないで書こうと思います。「僕の見てきたなっち」を語るにはその方がいい気がするから。ということなので、事実としての細かな間違いがあっても、どうぞご容赦ください。


なっちに関する最初の記憶は、正直なところよく覚えていません。それは間違いなく「ASAYAN」の映像であったはずではあるのですが、そのうちの何であったかを覚えていません。しかし少なくとも、後になって「過去を振り返る」という目的で放映されたものの記憶なのかもしれませんが、「僕が覚えている、なっちの最も若いときの映像」は、赤ちゃんの時の写真だとかは別として、恐らくはASAYANのカメラが捉えたのであろう、実家の冷蔵庫の前で牛乳を飲んでいる映像です。「背を伸ばしたい」と言ってたのだったかな。結局その願いは、大した結果を生まないことになってしまうのですが(笑)。そこには「安倍なつみ(15)」と出ていたはずです。なっちはキャミソールだかノースリーヴだかを着ていた気がします。青か白か、そういう、空みたいな色でした、たしか。それは夏で、1997年の8月10日が訪れるわずかに前のことだったのでしょう。すぐに彼女は「安倍なつみ(16)」になったはずです。僕には「なっちは16歳」、という印象がずっと残っています。今も一部では「推定16歳」と言われるようですが(笑)、やっぱりなっちは16歳。僕の中でのなっちはその年齢からスタートしています。


どうでもいいような話だけど、その時の僕は「もうすぐ14歳になろうとしている13歳」でした。とにかくあらゆることに不貞腐れていました。多くのかつて中学生だった人がそうであっただろうと思いますが、物事を斜に構えて見るという目線「しか」持っていませんでした。好きだったことといえば、音楽だけしか思いつきません。ちょうどギターを弾き始めた頃です。初めて付き合った女の子も、ひどい話ですが、思いっきり好きだという気分ではありませんでした。好奇心があっただけでした。「遠く甘酸っぱい思い出」ならばいいのだけど、そんな感じでもなく。


そんな中学生が、あのなっち、「あの」というのは、つまり今のなっちではなくて、あの「頼りなげで、無邪気なのだけど無防備すぎるがゆえの鋭さがどこかしらにあって、眉毛が印象的で、恐ろしく垢抜けていなくて、そんな女の子が何故こんなよくわからないけれど真っ直ぐで強い意志を持っているのか」という感じのなっちですが、そんな彼女のことを好きになったということが、10年が経った今考えてみると、どうにも腑に落ちないんです。


そんな中学生にとっては、テレビなどというのは最も斜に見るべき媒体です。ましてやロックにかぶれ始めた彼には、アイドル・ポップスなんて鼻で笑って一顧だにせず、という態度が適切であると思われるはずです。「両手いっぱいの夢を抱き、不安に立ち向かいながら希望を追って、ド田舎から東京に出てきて必死にやっている女の子」なんて、絶対にシンパシーを覚える対象としてはいけないはずです。知りもしないのにそれらしく「どうせすぐに消えていって忘れられるし、もし売れたとしても簡単に都会に染まって男と遊んだりしてダメになったりするんだよ」なんて言って、わけのわからない哀れみを込めてあざ笑うべきであるはずです。


ところが、彼はそうしませんでした。
とてもじゃないけれど、なっちに対してその種の態度を取ることなんてできませんでした。不思議なことでした。特に誰となっちについて語るわけではなく、どちらかと言えばこっそりと、だけど期待と不安の入り混じったようなわけのわからない気持ちで、「あの安倍なつみという子はどうなっただろう」と毎週の放送を見ていたのです。


彼がASAYANという番組を見ていたのはたぶん、あのドキュメント的な体裁を取りながら虚飾と過剰な演出にまみれた番組の構成が、「斜に構えてその登場人物をあざ笑うこと」に適していたからだと思います。飾り立てられた事実らしい物語を、そうした歪んだ欲求から、彼は求めていたのでしょう。
だけど、安倍なつみという存在はそんなおぞましい需要と供給の関係から、明らかに自由でした。少なくとも彼にとっての彼女は。彼は精一杯背伸びをして斜めから見下しているのに、いつの間にか彼女は目の前にやってきて、真っ直ぐにこちらを見ているかのようでした。目を背けるいとまもありません。彼は今までの自分のくだらない自意識を恥じます。しかし、どうしても目を背けることができませんでした。


そして、彼は密かに、強く、テレビの向こう側に向けて念じていました。「頑張れ」と。つまりその彼が、その態度においてはほとんど全く変わらずに10年を経たのが、今の僕です。


結局のところ、僕がなっちを応援する上で何かしら「気付く」こと、それは全て、その10年前の不思議な感情を解き明かすことに繋がっている気がします。そして、そのなっちへの感情が今の僕の根本にあるとまでは言わないけれど、今の僕の根本にある意志というかものの考え方というか行動規範というか哲学というか、そういうような事柄についての、ある一つの重要な象徴になっていることは間違いないわけです。


そんな「『なっちへの感情』的なるもの」は、もともと僕の中にあったもので、彼女によってもたらされたものではありません。だけどそれに、もうほとんど死に絶えようとしていたそれに気付かせてくれた要素の一つは、間違いなく彼女の存在です(他に考えられるのは「ロックンロール」や「映画」です。しかしそれらと彼女の存在とは、恐らくこのシリーズの後のほうで書くことになると思いますが、完全に相異なるものではありません)。その「気付き」がなければ、あの愚かしい十代の日々を経る中で、そんな大切な何か――「大切な何か」みたいな表現を僕はあまり好まないのですが、そうとしか言いようがありません――を失ってしまっていただろうと思うのです。それは取り返しのつかないことだし、しかもそうであったならば僕は、ただでさえどうしようもなくくだらない人間なのに、今よりもさらにくだらない本物の俗物となってしまっていたでしょう。考えるだけでもおぞましいことです。そういう意味で、僕の中での彼女への感謝は、言葉にならないほどの重みをもっています。


ということで、「なっちのことを語る」ことは、やはり「なっちのことが大好きな僕のことを語る」という風になってしまうだろうなと思います。結局いつも通りの、このブログのスタイルなわけですけどね。
そんなことに興味を持ってくださる方がいるのかどうかはわからないけれど、自分の中での整理という意味も含めて、だらだらと書けるときに書き続けていこうと思います。お付き合いいただける方は、どうぞ気長にお願いいたします。あるいは半年や一年かかってしまうのかもしれないですし。


ってなわけで、今日は主人公とヒロインの(一方的な)出会いだけでおしまいです(笑)。