まだ書きたいほどが山ほど。


まとまらないので、役者さん別・あるいは要素別に書いていこうかなと。


岸谷五朗さん(カラフ)
岸谷さんはテレビ出演が多数ありながら、もともとは舞台から積み上げてきた役者さんですよね。実は舞台での姿を見たことはありませんでしたが、凄い存在感でした。「凄い」というのは、ただオーラが出ているとかそういうことだけでなくて、舞台に立っているだけで、その場の表現のみならず「文脈」をも表現すると言う点です。前述したこととも重なってきますけど。
「文脈」というのはつまり、その人物が積み重ねてきた人生そのものとも言えるでしょう。「今いきなり舞台に現れた、これこれこういうキャラクターですよ、って設定された人物」じゃないんですよね。生まれて今に至るまでのカラフを、全て背負い込んでいる。これぞ俳優さん、という感じです。特に重い過去を背負うカラフという役には、これぐらいの格が必要なのだなと感じました。僕が初めて岸谷さんの演技に圧倒された、映画『月はどっちに出ている』でも同じようなことを感じていたなあと思い返しました。圧巻。
歌唱についても、歌い手としてはプロの方ではないにせよ、かなり上手だと感じました。重量感の有る低音。クライマックスのアーメイさんとの歌唱は、アーメイさんに持っていかれるのではなくて、無骨で不器用なカラフの内面にある優しさでもって「寄り添っている」ように感じました。


・アーメイさん(トゥーランドット
僕は初めて歌声を聴いたのですが、「アジアの歌姫」は伊達じゃない。凄かった。なるほど「女帝」、という感じです。有無を言わせず聴き手の心を支配するような、妖しい繊細さと力強さを備えた、素晴らしい歌声でした。数万人の観衆の心を一挙に掴むわけです。
一方で、確かにセリフはちょっと……もの凄い努力の跡は見えたのですが、しかし日本人の耳で聞くと違和感が残る部分はありました。母語以外の言葉での演技で評価するのはフェアではないですが、演技そのものもなかなか伝わりにくかった。
だけど、彼女の出演することになった経緯(ケリー・チャンが怪我により降板、代役となった)を考えれば、少ない準備期間でよくぞあそこまで、と思います。日本語の拙さより、むしろその努力を素直に賞賛したい。
それに、パンフレットの5人の座談会でも岸谷さんが指摘されていましたが、歌における日本語は本当に綺麗でした。素晴らしかった。なるほど、歌声で・メロディで伝える人なのだなと納得。まさに歌姫でした。


中村獅童さん(ワン)
この人については、「歌舞伎界の異端児」という認識はあったのですが、きちんと演技を見たことはそういえば少なかったなと。映画などで何度か見た記憶はあるのですが、僕が見たのはいわゆる「怪演」という役柄のものが多かった気がします。そうした演技を歌舞伎界の方がされるという点に驚き、また卓越した引き出しの多さと懐の深さをもった方なのだと思っていました。
今回のワン将軍ですが、女帝トゥーランドットの「冷血」っぷりの実質を体現している役として存在しながら、しかしその実には苦悩、懊悩、コンプレックスだとか支配欲を渦巻かせているという点で、最も人間臭いキャラクターの一人でした。確固たる存在感が先に立ち、そして後に強烈なその存在を揺らがせることで、その泥臭い人間味を見事に表現していたと思います。
ところで、ワン将軍は、宦官ミンと並び、劇中で死にゆくキャラクターの中で最も悲しい存在だと思います。リューやティムールは、自らの思いを貫く過程で、貫くべき方向をしっかりと見据えたままに死んでいきました。ところがワンは、最期にはそのような思いを得た――のか、どうなのか――ものの、しかし彼は、ねじれたトゥーランドットへの愛から謀反を起こしてしまい、既に後戻りのできない所まで来てしまっていた。そして、遂には自害するわけです。その武人としての散り際は哀しくも見事なものでしたが、彼の生涯を思うと、同情を禁じえない部分は山と存在しますし、やりきれない気分になりました。そんな強烈な余韻を残してくれた獅童さんは、やはり凄かった。
歌声も、独特の低いだみ声で強引にまとめた感じが、僕は好きでした(笑)。


早乙女太一さん(ミン)
一般的には、最近急速に名前が知られるようになった方だと思いますが、いやあその流し目を最前の席で目撃したかったなあと(笑)。本当に。
多くのキャラクターが、不器用であったりねじくれていたり、あるいは真っ直ぐなものであったりするそれぞれの愛を抱えている中、「人を愛せなくなってしまった」という苦悩によって「愛」を描き出すという難しい役柄。まして宦官という設定。普段から女形をされているとはいえ、やはりそこには大変な苦労があったことと思います。しかし良かった。なんと言っても「身のこなし」が素晴らしく美しい。このキャラクターは歌うことはしないのですが、その美しい身のこなしは、特にリューとの場面において、リューの美しい歌声と「響き合う」ようにして、愛に満ち満ちた場面を創り上げていたように思います。愛し方がわからなくとも、この人物は最初からずっと、外には出せない自らの愛を秘めていたのだ、ということを見事に表現していました。
独特のねばっこいセリフ回しはこの役者の特徴的なものなのか、それとも役に合わせたものなのかはわからないのですが、最初は少し気になったものの、徐々に気にならなくなりました。少なくともこのミンという役柄にはとてもよく似合っていました。
でも、彼が上半身裸で鞭打たれる場面になり、一斉に近くの席のオバサマ方がオペラグラスを取り出したのはなんとも……(笑)。いや、なっちファンがどうこう言えることではないのかな。ははは。いいけど隣のオバサン、いちいち一緒に来ていたダンナに「ホラ、太一くんよ」って耳打ちすんのやめてくれよっていう(苦笑)。
まあそれはともかく、この早乙女太一さんという方は凄いですね。まだ16歳って。今後も程よく、外部の芝居にも出て欲しいと思いました。


北村有起哉さん(物売り)
この方は本当に素晴らしい。この方抜きには絶対に、強烈な個性揃いこの舞台における統一感は得られなかったと思います。例えば前述したような冒頭のシーン。開演直後の、まだ物語に入り込めていない観客に対して、つかみ所の無いような飄々とした演技で、スッと入り込んでくる器用さ。いまいち信の置けないお調子者でありながら、憎めない存在のキャラクター。
狂言回し」的存在ともいうべきでしょうか、それに相応しい、鮮やかなほどに自由自在の存在感でした。あっという間に存在感を出したり引っ込めたりと、舞台において足りない部分を全部埋めて回っているような感じ。その身のこなし、安っぽくないが親しみやすいユーモア。全身全霊の「舞台人」だと思いました。文句無しです。もう、パンフレット等の写真の写り方まで素晴らしいと思いませんか。いやあ、大好きになりましたよ(笑)。お父様も著名な方ですし、前々から名前は存じ上げてはいたのですが(重要な演劇賞もたしか受賞されている)、素晴らしい役者さんだと思いました。


小林勝也さん(ティムール)
この方の「静かなる存在感」はさすがの一言でした。例えば、前述した序盤のカラフとリューの場面でも、特にセリフを発することが無くても、というか、セリフも動きも無くとも存在感を静かに表出させるということをされているから、ただの「カラフとリューの対話」ではなく、「それが為されている空間」が出来上がるのだと思いました。
あれはどういうことなんだろう(笑)。やはり長く積み重ねて来られた経験の重み――だけでは済まないですよね。うーむ、とにかく、凄い。なんかアホっぽい感想になりますけど、それしか言えないです(笑)。とにかく、北村さんが「動の舞台俳優魂」ならば、小林さんが「静の舞台俳優魂」を注入していたことは確実だと思います。本当に凄かった。



久石譲さん(音楽)、ワダエミさん(衣装)
なんというビッグネームか、とお名前を打って改めて思いました(笑)。


久石さんの音楽については、僕ももちろんご多分に漏れずスタジオジブリの映画などで親しんでいますし、以前から大好きでした。心地よい親しみやすいメロディーでありながら、一方で「心をひっくり返される」ような驚きを与えてくれる楽曲の数々は、今回の舞台でも変わらず。本当に素晴らしかった。だけど、なんというか、CDとかが欲しいなあ、と(笑)。記憶だけでは細かな感想を書くのは難しいです。


一点だけ。
僕はそこまで音楽的なことに詳しいわけではないので、見当外れな指摘なのかもしれませんが、一つの作品の中の様々な場面の曲に跨って、同じ「テーマ」を共有させることによって一貫性を持たせる、っていう手法がありますよね。何か用語があるのかもしれませんが……。
たとえば、わかりやすく久石譲さんの楽曲でいえば、『魔女の宅急便』において。


http://players.music-eclub.com/?action=user_song_detail&song_id=5841
この『海の見える街』という楽曲(とても有名ですね。大好きです)のメインのメロディ(12秒あたりから)の印象的な旋律がありますよね。これに対して、同じ『魔女の宅急便』の中の、


http://players.music-eclub.com/?action=user_song_detail&song_id=155080
この『おじいさんのデッキブラシ』という楽曲(キキが落下の危険にあるトンボを救出に行く場面の曲です)、これの冒頭。
メロディーに共通性を持たせて、全く違うアレンジでありながら、作品全体としての統一感を持たせていると思うんですね。たぶんそういう「手法」なのだと思うのですが……。


同じように、『トゥーランドット』でも、たとえばリューの歌う「♪報〜われなくても〜」という部分。これと共通する旋律が、他の楽曲の随所で聴こえてきた……ような……うーむ、自信薄なのではありますけど(苦笑)。そんな企みが裏に秘められていて、それも手伝って統一感を得ることができたのかな、なんて、ふと思ったりしました。
どなたか詳しい方に教えていただけるといいんですけどね……(笑)。という。


また、衣装について。
僕みたいにハロプロの舞台をよく見ていると(最近はそうでもないけど)、特にいつも思うのは、なんというか、まあ端的に言うと「衣装の安っぽさ」なんですね。舞台上での映え方の代償に、そういう安っぽいことになってしまっていると思うんですが。とにかく安っぽい。学芸会じゃないんだから、といつも思います。
しかしワダエミさんの衣装は、そんな所とは対極にありますよね(比較に出すのも失礼な気がしますけど)。細部までこだわり抜いて丁寧に丁寧に作り上げていて、しかも演者の個性や脚本の滋味を完全に把握し切っている。だからこそ、美的な表現と現実的な必要性を兼ね備えた、衣装そのものが表現として成り立つ、そして演者と化学反応を起こしてより良い表現になる、というような衣装になるのだと思います。
パンフレットに、衣装に使用した布の切れ端が、オマケとしてついてきました。あれをまじまじと眺めるに、うーむ、凄い……と感嘆してしまいます。「そんな細かい細工は観客には見えないだろう」とかいうこと自体が無粋そのものですね。根本的にそういう発想で作っていない。そうではなくて、いかにリアルなトゥーランドット国を実在させるか、という発想なのでしょうね。これぞ表現。凄かったです。



……といったところで、ひとまずは終了。
なっちの話をするのは、もうちょっと考えてみないと難しいです(笑)。