ひとつだけ

これも具体的なことはそのうち書くと思うけど、一つだけ。


ある「キーワード」が使われる際に、"時の洗礼”というのはとても大事だと思うのです。その言葉が時の洗礼を受けているかどうかということ。それは単にその言葉が経てきた時間の長さそのものが大切なのだという意味ではなくて、その時間の間にその言葉が洗練されてきた過程というものが大切だと言いたいのです。


洗練、というとわかりにくいかもしれません。言葉というのは文脈によって不確かにその意味が揺れ動くものだと思いますが、その幾通りもの使われ方・その文脈が提示されて始めて、その言葉が多くの人の間で認知されているその認知のされ方、つまり多くの人がどのような意味を込めてその言葉を使っているかということ――すなわち「その言葉の意味」が形成され、認知されるのだと思います。言葉、ある種のキーワードは、それが生まれた段階ではまだ不確か極まりないものであり、今後どのようにも変化しうるということ。


愚かなのは、そのような「生まれて間もないキーワード」を、さもその言葉に相応しい文脈が既に決定されているかのように、そして読み手がそれを理解しているのは当然であるというような態度で使用することです。長い時間をかけて様々な使われ方をすること以外に、その言葉がそれなりの重みを持つようになることはあり得ないと僕は思うのですが、しかし実に安易に、空虚な重みをある種の「ニュー・ワード」に与える人がことネット上では多いと感じています。結局その言葉は、それに対する解釈の違いから、極めて使いにくい言葉になってしまうのです。たとえば、専らある人々を揶揄するために使われるようになるだとか。そして、その「揶揄」の中身も空虚なもので、実際にそれが的を射たものなのかどうかという議論の過程を無用なものにしてしまうためにその言葉が使われるようになることが多いと感じます……わかりにくいでしょうか。たとえば「また●●ヲタか」みたいな言い方に対して感じる絶望感の説明になっているかと思います。


言葉を発する・綴る際に、それが発信者(=自己)と受信者(=他者)との間で共通の認識を持たれているということが、「誠実な」伝達をしようという姿勢においては不可欠です。もちろん、まったく共通であるなどということはありえませんが、それは使い方や前後の文脈などによってできる限り補完されるように努められるべきものです。そのような責任感無くして安易に「用語」を使いまくる姿勢は、無責任で不誠実なものであると言わざるを得ません。中には人の人格を否定するような下品な「蔑称」を、正当な用語であるかのように堂々と使う輩もいますね。同じ言葉を母国語とする人間として恥ずかしいからそのような人には日本語を使って欲しくない、とさえ思います。


なんとなく「はてなキーワード」の議論にも関連してくる話ですね。いや、最近また新たな言葉が生まれ、一部で議論になっているようなので、ちょっと思ったことを書いてみました。


ところで、読んでいて不愉快になるのは、そのような議論にかこつけて、あたかもその議論に参加するかのような態度で、言葉の裏に(その議論とは無関係に)ある人々を批判する意味を込めているような記述ですね。現在の娘。メンバーを指す言葉に対する議論をしているように見せて、以前の娘。への罵声をそこに溶かし込んでいるようなもの。理知的な風を装っているから一層ひどいですし、そのようなものを"注目すべき意見"のように紹介するような人がいるのもひどいことです。


やれやれ。結局長くなってしまった。これもまた今度、もうちょっと具体的に書きますね。