やさしさはどこに

こんばんは、青山通りです。
思ったことを色々としたためようかと思います。


■僕には、今までに触れた数々の表現の中で自分の中で宝物のように思っている一つに『たからもの』という作品があります。阪神大震災を体験したという設定の「一人の少女」にスポットを当てた、ささやかで不完全でありながらもなお、とても素晴らしい作品でした。
その主題歌を歌った「千」というアーティストがいて、今のところ後にも先にも彼女はそのCDの他の作品を発表していないといえる状況なのですが、しかしその歌はともかくも素敵な歌でした。それを歌ったのは作中の「千」と言う女性で、すなわちその役を演じた安倍なつみという歌い手。
このような特殊な情況で発表された歌であるから、たとえば安倍なつみのソロデビュー作『22歳の私』ですらふさわしい人がふさわしいタイミングでカヴァーすることを完全に肯定する僕でさえ、この曲を他の人が歌うことを仮定してみると、そこにはかなりの違和感を感じます。
もしも安倍なつみという歌い手以外の人物がこれを歌うとするならば、それを為すのはもう一人の、つまりかつての「千」を鮮烈に演じた「村上愛」という歌い手、それも素敵な大人の女性に成長した未来の「村上愛」、彼女をおいて他にいないと、そう考えていました。それを楽しみにしていました。


あまりにも、あまりにも残念です。ただただ、悲しい。


■未熟な僕には、荒れ狂う様々な複雑な感情に論理性・説得力を持たせて書くことができません。自分自身、色々なことに耐え切れずに、考えることを放棄してしまってすらいるのかもしれないということを思い、絶望的な気分になります。情けない。しかし、せめて、痛く共感した以下のエントリを紹介させていただきます。


「蛇口を閉めろ」――『重層的非決定?』(はたのさん)
http://kyoto-edu.bne.jp/~althusser/nacci/


ハロプロアイデンティティの中心には今も昔もやはりモーニング娘。という存在があって、その中心にはやはり『LOVEマシーン』というあまりにも素晴らしい名曲があるのだと思っています。


日本の未来は世界がうらやむ 恋をしようじゃないか


それを歌う少女たちに、ささやかな恋愛は、ただ一人ぶんの想いをまっとうするだけの、謙虚でささやかな恋愛さえも、許されないのか。


そんな歌に、どんな意味があるのか。
彼女の先輩が同様の情況に陥った当時にも思ったことです。


ああ、それにしてもなんという絶望感だろう。