Decade of Support その1(もはやこれは恋愛だ)


前回の続き。
なっちが気になって気になってしょうがなくなったわけですが、しかし当時は「なっちに注目」=「娘。に注目」という状態でした。「≒」ですらないですね、もう完全に「=」。したがって、必然的に「モーニング娘。」全体を捉えていくということになるわけです。


この辺りが今思い返せば実に売り出す側の巧妙な所だったと思うわけですが、要するに、心情的になっちの側に立てば立つほど、それはイコール「モー娘。のファン」ということに直結してくるという状況だったのですね。なっちの成功を祈るということは、娘。の成功を祈るということだったわけで。しかも度重なる「試練」を通して、それは着実に強化されていくわけです。「抑圧→解放」の繰り返し。一たび入り込んでしまえば、テレビを通じた奇妙なエクスタシーすらありました。


その時点では、まあ僕もしょうもないガキでしたし、なっちの情況に深く思いを馳せるとか、距離を置いた冷静な視点をオプションで持つとか、そういう現在のようなキモい心情(笑)は無かったと思います。


よく考えると、「なっちだから」なんでしょうね。様々な競争があっても、新曲が出ても、テレビに出ても、当時はとにかく当然のようになっちがセンター、中心でした。揺るぎなかった。だから、それは何故かとか、そこには内面的なプレッシャーや外面的な軋轢があるのではないかとか、そういうことに見事に思いを馳せずにのうのうとなっちを、娘。を眺めていたわけです。


いや、もちろん、「いつ飽きられるかわからない、売れなくなったら即終了だ」みたいなもの凄い崖っぷちで戦っていた彼女たちに対しては、シンパシーと心からの応援の気持ちでもって視線を送っていたのですけど。ただそれはやはり「娘。全体」として見ていたんですよね。つまり「抑圧」のときは娘。全体を見ていて、「解放」のときはなっちに注目していたんだと思います。我ながら酷い話で、オイシイとこ取りにもほどがありますね。なっちにもメンバーにも、本当に申し訳なくなります。だけど、たぶんそうでした。


しかも、当時はそのような自己分析も無いままに漠然とやっていたから、『ふるさと』→ごっちん加入→『LOVEマシーン』の時に大混乱を起こすわけです。今まで僕の視界に無縁だった「抑圧」、ルサンチマンが、かつてない規模でなっちにのしかかったわけです。そして「解放」、カタルシスが、娘。全体に訪れるのです。


もうとにかく、ASAYANの馬鹿げた演出にも簡単に踊らされて、当時は混乱しました。「一生懸命やってるなっちがまるで噛ませ犬じゃないか」とか「なんで今まで積み上げてきた人間が、ポッと出の新人にオイシイとこだけ持っていかれるのか」とかね。醜い感情しか湧かない。今思えば、我ながら情けないです。


そんなわけで、ここで初めて、なっちを眺めるときに、常にルサンチマンの影を感じるようになったわけです。だけど、それはなっちに所属するものではなくて、僕の中にある種々のルサンチマンをなっちに反映していただけなのだと思います。


いや、過去形で書くのはおかしいですね。形や状況や強さは変われど、それは今もなお、続いていることだと思います。それは変わらない。ただ、それが「間違った状態」とか「排除すべき事柄」だとか思わないようになったことが、変わったことと言えると思いますね。このあたりの話はまた後で、かな。


まあともかく、そんな状態になりました。それでも一層なっちに・娘。にのめりこんでいくことになった契機というのは、やはりコンサートでしょうか。初めて見たハロプロのコンサートは、確かあやっぺのラスト(その直前ぐらい)だったのかな。「あやっぺコール」したのを覚えてます。
当時はもう、開演前からなんだか緊張しっぱなしでした。高揚感と緊張感と、わけのわからない微かな恐怖みたいな感情すらありました。そして登場するなっち。その声。もうなんだかわけがわからなかったけど、とにかく胸がいっぱいになったのを今も覚えています。応援しなくては、というわけのわからない昂りが、ずっと消えませんでした。


それから、ちょっと話は前後するのですが、『セカンドモーニング』というアルバム。これがとにかく僕の心をとらえて、もうたまらなくなったんですね。あのアルバムって、なんか全体的に恐ろしく切ない。収録シングルも4曲中3曲は完全に切ないですし、『真夏の光線』だって、いつか書いた気がしますが、めちゃくちゃに切ない曲です。「一人が怖いわ」に始まり、「1回きりの青春」に終わるあのアルバム。「青春」の持つ輝かしさというよりは、その影にあるネガティヴな側面を鋭く切り取ったようなアルバムでした。ネガティヴというと語弊があるけれど、「青春」というのは当然、孤独感とか焦燥感とか苛立ちとか、そういう諸々を内包しているからこそ輝かしいわけですね。それらの曲は彼女たちにピッタリで、当時10代半ばを越えたあたりの僕にも、暴力的なほど見事に訴えかけてくるものでした。
とりわけ、なっちが昔から持っている、そして当時はより顕著だったある種の「不安定さ」。笑顔が明るすぎるほど明るく輝くからこそ一層濃くなる、ちらりと覗く影の暗さ。それが胸を刺しました。


そうか、それをライブで確認したからこそ、応援しなくては、みたいに思ったのかもしれません。イタさ爆発ですが、「彼女は俺だ、彼女の影は俺の影だ」みたいに思ったのだと思います。その思いは様々な逡巡を経ていくのですが、基本的には、実は今もそう思っています(笑)。


そういった諸々の事柄が、モーニング娘。を、「その中のなっち」を見るたびに感じるある種の苦しさは着実に膨らみ始めていたにもかかわらず、それとは裏腹に僕を一層なっちのファンにさせていったのだと思います。


周囲に綺麗な気になる女の子がいて、ただ眺めて綺麗だなーってだけだと楽しいだけなんですけど、いよいよ本格的に好きになってしまうと苦しくて苦しくて、それでもどうしても思考から・感情から彼女が離れない、みたいな状況と同じですね。それはもう恋愛だろう、っていう。いやはや、しかし我ながら、「気持ちいいほど気持ち悪い」ですね、こうして文章にしてみると。はっはっは。


という感じで。いよいよ娘。が、なっちが国民的アイドルになり、様々なことが拡大膨張していき、僕の混乱も比例していき、だけどもはやなっちから目を離せない、という日々については次回に。


誰も期待してねーよっての。