二度泣く音楽劇

赤坂では見られず、ようやく関西にやってきてくれた『トゥーランドット』。楽しみで仕方なかったという気持ちはありつつ、日々の忙しさにかまけているうちにいつの間にか「ハッ、もう明日か!」という感じの前日で、なんだか心身がバラバラになるような奇妙な高揚感を覚えておりました。


チケットですが、最近はコンサートでも何でも、先行予約のような機会には取れないんですよね。直前にならないと行けるかどうかがわからないため。だから、結局当日券かそれに準ずるタイミングでの入手で、ほぼ最後方の席で観るということになります。まあ仕方ないけれど。


しかし今回の『トゥーランドット』は客席全てを使った壮大な演出が為されていたので、後方からの視点でもそれはそれでいいかな、と思わせてくれました。


感想としては、まず「どこを切り取ってももれなく豪華だ」ということ。キャストしかり、スタッフしかり、セットも演出も、会場で販売されるパンフレットまで、とにかく手が込んでいる。何百人の「超一流」が全ての力を注ぎ込んだ、という舞台です。凄い。


聞くところによると赤坂ではさらに凝っていたようですが、会場の案内係の方々までも衣装を身につけておられ、会場そのものを「トゥーランドット国」にしてしまおうという意図が見えました。まさに「劇場」。
そんな中で、第一幕の開演は、それまで会場に流れていたBGMと溶け合うようなさりげない演奏がオーケストラピットから流れ始め、そして照明が落ちていき、ざわついていた観客が急速に静まっていく、という形です。たとえば映画館でブザーが鳴り響くような「はい、ここから開始!」という感じにならないようにしたのは意図してのことでしょうか。
そこで最初のセリフを響かせる物売り(北村有起哉さん)が秀逸で、その演出をさらに際立たせてくれます。そして客席後方から登場する三人の旅人。日常⇔非日常の「切り替え」でなくて「融合」。実に心地よく乗せられて、僕はすぐにトゥーランドット国の群集の一人になることが出来ました。


突然くだらん話をしますけど、もう「あっ、なっちだ!」とか思わないんですよね(笑)。あの3人の異国人は誰だろう、と思うわけです。


怒涛の如く展開していく物語。大筋を知っていたとはいえ、激烈な愛憎が飛び交うストーリーはやはり圧巻でした。って、凄い抽象的だなあ。何から言えばいいのか……。まあ、なっちファンだからリューのことから書くのが一番書きやすいのかな。うん、そうします(笑)。


"宮本−安倍リュー"は、僕の元々のイメージとはかなり異なるリューでした。「侍女らしく控えめだが、内に強く真っ直ぐな想いを秘める薄幸の少女」ではない。後半はその通りだが、前半が全く違います。主たる(そして心中密かに深く愛する)カラフ(岸谷五朗さん)へも歯に衣着せぬ物言いをする。側近の老ティムール(小林勝也さん)にも堂々と振舞い、甲斐甲斐しく世話を焼く。「母親面するな」といったカラフのセリフがあったように記憶しますが、まさにそのような感じでした。


特に序盤は、無謀な挑戦に臨もうとするカラフを叱り飛ばし、焚きつけるティムールを睨み付け、といった様な、「芯の強い活発な女の子」という感じで、かなり度肝を抜かれました。リューへのイメージとのギャップに、そして、「重心の低い」力強い発声でセリフを発する安倍なつみに。
優れていたのは、怒気を孕んだ叱り付けるようなセリフにも、その背後に深い愛情から来る心配・不安をきっちりと表現していた点でした。セリフ回しのわずかなニュアンスで「ただ口やかましいだけ」となってしまいがちな所を、そうさせていなかった。そこに感心しました。「練りこまれている」が「作られていない」人物リュー。宮本亜門さんとなっちの間で、相当な量の試行錯誤のやり取りが重ねられたのだろう、と思います。


それから、ここで重要なのはカラフ。カラフの初登場時は、いきなり「抜け殻のような状態」から始まります。「本来は強く誇り高いはずの、由緒正しい血統の東方の王子」が、生きる目的を見失い抜け殻のようになっている。しかし、「いかに打ちひしがれているのか」を表現するためには、本来はどれほどの人物なのかが観客に理解されねばなりません。ところが「本来の姿」が描写される余地が無いのです。
その難しい表現をする上で、岸谷五朗さんは素晴らしいと思いました。つまり、「抜け殻状態で自暴自棄のカラフ」を演じながら、その一方で、本来あるべきカラフの姿、その力強さ・誇り高さをも感じさせる(想像させる)ような存在感を放っていたのですね。だからこそあの場面が生きる。だからこそリューは一層苦しむ(どうして自分から命を捨てにいくようなことをするのですか)、という描写。凄く良かった。


ああ、序盤だけで書きすぎてしまった(笑)。ちょっと網羅的に書こうとせずに、飛ばし飛ばしで行きます。後から補完ということで。


リューは最も観客の心を捉える存在なのではないか、という亜門さんのコメントがあった気がしますが、確かにその通り。何故カラフは無謀な難題に命がけで挑むのか。とても「不合理」です。何故なのか、という問い。それを代弁するのがリューでした。


リューはその後、ミン(早乙女太一さん)という宦官として「自分の存在が不合理そのもの」というような業を背負った人物と出会い、心を通わせます。登場人物は皆、鬱屈した・屈折した愛情を抱え込み、がんじがらめになっている。そんな中で一人、真っ直ぐに愛を掲げ、命を懸けて貫こうとするリュー。しかし、そのリューの姿すら「不合理」なのではないか、という問いかけがここで起こります。ミンは次のようなことを問います。


何故、愛するのか。決して報われることのない愛に身を焦がし、命を懸けるのは何故なのか。


それに答えるのが、リューのソロ曲『愛するための愛』。「でも」という言葉で歌が始まったように記憶します。「でも」。
伸びやかで力強く、しかし切々と歌う歌声に、涙腺を破壊されました。というか、こう書いていて思い出すだけでヤバいです(笑)。
ああ、CDを発売してくれないかなあ。


閑話休題。それにしても、このあたりの歌やセリフの数々は、テーマそのものと直結してくる感じがあります。


何故生きるのか。一人生まれて、無常の世界を漂い、そして一人死んでいく、そんな宿命の間隙の、刹那のようなその生という時間を、命燃やしてもがき続けるのは何故なのか。不条理ばかりが跋扈し、悲しみや苦しみばかりのようなこの世の中を、それでも歩いていくのは何故なのか。


それは愛するためだ、とリューは訴えかけていたように思えます。「愛することは素晴らしい、神様が人間に与えてくださった魔法のような力」なのよ、と。


それはただの綺麗ごとではない、ただ一つ信じることのできる確かな光なのだと、リューはその命を懸けて伝えます。リューは確かに、一筋に愛に生き、そして愛に死んでいきました。



……ああ、それを演じていたのは安倍なつみだったのだなと、「トゥーランドット国」から家に帰り着いて、ようやくしみじみと思い起こしました。表題の「二度泣く」の二度目は、それです。


よくぞ、よくぞやってくれた、と思いました。正直言って、もしかしたら僕は、様々な所で見られるなっちへの絶賛に対してもむしろ「なっちはあれぐらいの実力を持ってるんだよ、俺は知ってたぜ」みたいな気分になるかもしれないとも思ってました。「アイドル出身」への予断から、とても公正とはいえない評価を(「世間」に)されているな、とは思っていましたから。
でも、そんなどころじゃない。彼女の一つ一つの成長過程を注視してきた僕のようなファンでさえ、「安倍なつみ、すげえよ」と、何の留保も無しに思いました。ステージ上での堂々とした身のこなし、響き渡るセリフ回し、天に突き刺さり世界に覆うかのような歌声。


ちょっと上手く書けないですけど、なんだろう(なっち風)、一つ言えることは、「なっちのファンでよかった」ということですね。これほど強く思ったことはありません。


色んな視点から思うことがあって、色んな文脈から語らなければならないので、とりあえずこんなとこで。


多彩な役者さんたちについても、演出や舞台美術や衣装についても、それから素晴らしい音楽についても思うことはたくさんあるので、また近いうちに。


……っていうか、名古屋公演行きたすぎるよああああどうしようどうしよう。

余談。

まったく話題が変わりますけど、℃-uteのアルバムに『夏DOKIリップスティック』っていう、矢島舞美ちゃんがソロで歌ってる曲があるんですけど、ありゃとても良いものです。なんか90年代前半ごろのB'zが歌ってそうな(?)ベタベタなのか新鮮なのかよくわからん曲なんですけど、もうギリギリんとこで頑張って歌ってる感じで。ちょっと上ずり気味になったりするとこも、なんかニヤニヤしてしまいます。悪い意味でなくて。キモい意味ではあるかもしれないですが。

いや僕のように「なっちの妹」としての舞美ちゃんにのみ親しんでるようななっちファンでも、なんか彼女のパーソナリティ含めて楽しめる曲だなあ、と思った次第で。けっこう聴いてます。鈴木愛理ちゃんの『通学ベクトル』もいいけど。

Decade of Support その1(もはやこれは恋愛だ)


前回の続き。
なっちが気になって気になってしょうがなくなったわけですが、しかし当時は「なっちに注目」=「娘。に注目」という状態でした。「≒」ですらないですね、もう完全に「=」。したがって、必然的に「モーニング娘。」全体を捉えていくということになるわけです。


この辺りが今思い返せば実に売り出す側の巧妙な所だったと思うわけですが、要するに、心情的になっちの側に立てば立つほど、それはイコール「モー娘。のファン」ということに直結してくるという状況だったのですね。なっちの成功を祈るということは、娘。の成功を祈るということだったわけで。しかも度重なる「試練」を通して、それは着実に強化されていくわけです。「抑圧→解放」の繰り返し。一たび入り込んでしまえば、テレビを通じた奇妙なエクスタシーすらありました。


その時点では、まあ僕もしょうもないガキでしたし、なっちの情況に深く思いを馳せるとか、距離を置いた冷静な視点をオプションで持つとか、そういう現在のようなキモい心情(笑)は無かったと思います。


よく考えると、「なっちだから」なんでしょうね。様々な競争があっても、新曲が出ても、テレビに出ても、当時はとにかく当然のようになっちがセンター、中心でした。揺るぎなかった。だから、それは何故かとか、そこには内面的なプレッシャーや外面的な軋轢があるのではないかとか、そういうことに見事に思いを馳せずにのうのうとなっちを、娘。を眺めていたわけです。


いや、もちろん、「いつ飽きられるかわからない、売れなくなったら即終了だ」みたいなもの凄い崖っぷちで戦っていた彼女たちに対しては、シンパシーと心からの応援の気持ちでもって視線を送っていたのですけど。ただそれはやはり「娘。全体」として見ていたんですよね。つまり「抑圧」のときは娘。全体を見ていて、「解放」のときはなっちに注目していたんだと思います。我ながら酷い話で、オイシイとこ取りにもほどがありますね。なっちにもメンバーにも、本当に申し訳なくなります。だけど、たぶんそうでした。


しかも、当時はそのような自己分析も無いままに漠然とやっていたから、『ふるさと』→ごっちん加入→『LOVEマシーン』の時に大混乱を起こすわけです。今まで僕の視界に無縁だった「抑圧」、ルサンチマンが、かつてない規模でなっちにのしかかったわけです。そして「解放」、カタルシスが、娘。全体に訪れるのです。


もうとにかく、ASAYANの馬鹿げた演出にも簡単に踊らされて、当時は混乱しました。「一生懸命やってるなっちがまるで噛ませ犬じゃないか」とか「なんで今まで積み上げてきた人間が、ポッと出の新人にオイシイとこだけ持っていかれるのか」とかね。醜い感情しか湧かない。今思えば、我ながら情けないです。


そんなわけで、ここで初めて、なっちを眺めるときに、常にルサンチマンの影を感じるようになったわけです。だけど、それはなっちに所属するものではなくて、僕の中にある種々のルサンチマンをなっちに反映していただけなのだと思います。


いや、過去形で書くのはおかしいですね。形や状況や強さは変われど、それは今もなお、続いていることだと思います。それは変わらない。ただ、それが「間違った状態」とか「排除すべき事柄」だとか思わないようになったことが、変わったことと言えると思いますね。このあたりの話はまた後で、かな。


まあともかく、そんな状態になりました。それでも一層なっちに・娘。にのめりこんでいくことになった契機というのは、やはりコンサートでしょうか。初めて見たハロプロのコンサートは、確かあやっぺのラスト(その直前ぐらい)だったのかな。「あやっぺコール」したのを覚えてます。
当時はもう、開演前からなんだか緊張しっぱなしでした。高揚感と緊張感と、わけのわからない微かな恐怖みたいな感情すらありました。そして登場するなっち。その声。もうなんだかわけがわからなかったけど、とにかく胸がいっぱいになったのを今も覚えています。応援しなくては、というわけのわからない昂りが、ずっと消えませんでした。


それから、ちょっと話は前後するのですが、『セカンドモーニング』というアルバム。これがとにかく僕の心をとらえて、もうたまらなくなったんですね。あのアルバムって、なんか全体的に恐ろしく切ない。収録シングルも4曲中3曲は完全に切ないですし、『真夏の光線』だって、いつか書いた気がしますが、めちゃくちゃに切ない曲です。「一人が怖いわ」に始まり、「1回きりの青春」に終わるあのアルバム。「青春」の持つ輝かしさというよりは、その影にあるネガティヴな側面を鋭く切り取ったようなアルバムでした。ネガティヴというと語弊があるけれど、「青春」というのは当然、孤独感とか焦燥感とか苛立ちとか、そういう諸々を内包しているからこそ輝かしいわけですね。それらの曲は彼女たちにピッタリで、当時10代半ばを越えたあたりの僕にも、暴力的なほど見事に訴えかけてくるものでした。
とりわけ、なっちが昔から持っている、そして当時はより顕著だったある種の「不安定さ」。笑顔が明るすぎるほど明るく輝くからこそ一層濃くなる、ちらりと覗く影の暗さ。それが胸を刺しました。


そうか、それをライブで確認したからこそ、応援しなくては、みたいに思ったのかもしれません。イタさ爆発ですが、「彼女は俺だ、彼女の影は俺の影だ」みたいに思ったのだと思います。その思いは様々な逡巡を経ていくのですが、基本的には、実は今もそう思っています(笑)。


そういった諸々の事柄が、モーニング娘。を、「その中のなっち」を見るたびに感じるある種の苦しさは着実に膨らみ始めていたにもかかわらず、それとは裏腹に僕を一層なっちのファンにさせていったのだと思います。


周囲に綺麗な気になる女の子がいて、ただ眺めて綺麗だなーってだけだと楽しいだけなんですけど、いよいよ本格的に好きになってしまうと苦しくて苦しくて、それでもどうしても思考から・感情から彼女が離れない、みたいな状況と同じですね。それはもう恋愛だろう、っていう。いやはや、しかし我ながら、「気持ちいいほど気持ち悪い」ですね、こうして文章にしてみると。はっはっは。


という感じで。いよいよ娘。が、なっちが国民的アイドルになり、様々なことが拡大膨張していき、僕の混乱も比例していき、だけどもはやなっちから目を離せない、という日々については次回に。


誰も期待してねーよっての。

黄金週間

こんにちは。あおやまどおりです。
トゥーランドット、ようやく大阪公演ということで、楽しみすぎて死にそうです。まあ、大阪公演の最後のほうにようやく行ける感じだと思うんですけどね。
名古屋もなんとかならねえかなぁ……。


この『トゥーランドット』。なっち史上でも記念碑的な出来事になりそうだということは最初から予感していたし、現状の情況を見てもいよいよ本当に何かが動き出していきそうな感じですね。
で、それだけじゃなくて。僕の個人的ななっちファンとしての感覚においても、ターニングポイントというべきか、何かのひとつの象徴というべきか、そういう体験になると思っております。


だからこそ、その観劇までに、ある程度これまでの様々なことを文章にしておきたいと思っていたのですが。忙しいとなかなか難しいですね。まあそれでも、ぼちぼち、ちょっと書いてみようと思います。

あと何かあったっけ


何も無いですね。
ええ〜と。


あ、そういえばずっと放置している別館(はてなじゃない奴)が、契約切れで広告表示が為されるようになって、アンテナ入れていただいてる方がいらっしゃればひたすら上がりまくるという鬱陶しいことになってると思うのですが、あそこをいずれ復活させたりする際には、更新のたびにここに書きますので、どうぞ解除してやってください。お手数おかけいたします。


そんなとこかな。
いやはや、それにしても僕は相変わらずなっちが好きです。困ったものです。はっはっは。

ごっちん、加護ちゃん


元気そうな顔が見られたことは一つの事実として、素直に嬉しいです。
だけど、一体どういう状況なのかとかがイマイチ不透明で、そのへんについて心配してもいます。特に加護ちゃん
色々と語るには前提が必要で、それらをきちんとここに書いていないので、僕はちょっと軽々に何かを言いたくないんですが。
とにかく、彼女たちがまた自分の表現を発信していけることを心から祈っています。これもまだちょっとわからないかな。